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会津藩士山川大蔵(浩)は鶴ヶ城籠城戦を指揮し官軍の兵を一人たりとも城にいれませんでしたが、刀折れ矢尽き、ついに明治元年九月会津藩は降伏します。斗南に向かう途中、大蔵は京都時代に知己を得た長州藩士奥平謙輔に弟健次郎の教育を願い、山川健次郎は佐渡にのがれ奥平のもとで勉学に励み、後にアメリカに留学をはたします。帰国して東京帝大物理学教授となり、請われて東大・京大・九州大の総長を務めます。そして終始一貫して武士道を学生に伝えました。また斗南藩の開拓に功績のあった新渡戸傳。傳の息子で農学者新渡戸稲造の著した「武士道」はアメリカで発行され、広く日本を欧米に紹介します。これによって日本は欧米に劣らぬ文化国家であることが認識されます。後半渡戸稲造の「武士道」を紹介し、当時武士道の実践においておそらく日本一であった会津藩の教育についても詳しく著されています。会津藩と武士道が良く分かる著書でした。(3/30) | |||||
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古今亭志ん朝が肝臓ガンで死去したのは平成13年。東京落語の江戸前の語り口と正確さ粋さを併せ持った志ん朝は間違いなく名人の活きに達しつつであろう領域にいました。どちらも生で聞いたことはありませんが、昭和の名人の志ん生とその対局にいた文楽のそれぞれの「フラ」と「正確さ」をうけついだ志ん朝を愛してやまなかった落語ファンはおおかったはず。偉大な父志ん生を師匠に持ち、江戸前の落語家として後生に名を残すであろう志ん朝をあいした著者の鎮魂の著です。(3/29) | |||||
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会津藩家臣山川大蔵(浩)は戊辰戦争の会津藩日光口を西軍の攻めから守り通し、鶴ヶ城の籠城が続く中西軍の囲いを会津に伝わる彼岸獅子の踊りと笛の音に乗って入城を果たす。明治元年の戊辰戦争最大の激戦会津攻防のその後の斗南藩転封という正に藩全体の流刑とも言うべき過酷な処断を受けた会津藩。その最後の家老梶原平馬の会津藩士として苦しみと、ひとりの女性と静かに暮らすこととなる晩年、さらに廃藩置県に伴い斗南藩は青森県となり、ふるさとさえ失う。会津の誇りと決して賊軍で無かった証を求めて、山川浩は軍人として陸軍に身を置くこととなる。一方新撰組三番隊長斎藤一は容保より授けられた藤田性を名乗り、大久保利通の間者として働く。戊辰戦争から西南の役まで正に明治維新の10年間を多くの人物を魅力的に描き、さらに女性ではならの細かい愛情や仕草の描写がとてもよくかかれていて、たいへんおもしろく、会津人の心を描いた素晴らしい作品であり、噂にたがわぬ面白さでした。(3/28) | |||||
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世界的な細菌学者「野口英世」の伝記。誕生からガーナのアクラで黄熱病に罹患し死亡するまでのことが描かれています。渡辺純一著「遠き落日」以来の野口伝でした。新しい事実はあまり描かれていませんが、淡々と野口の足跡が事実として語られています。まさに野口は天才ではなく努力の人なのですが、何故に睡眠時間さえ極端に少なくして勉強や研究に没頭できたか、如何に語学の才能に長けていたか、更には異常な経済観念はどこから来たものかを、英世の母「シカ」父「佐代助」の遺伝的な形質、さらには会津地方の民謡「小原庄助さん」に見られるような放蕩ぶりは会津地方にあながち無いことではないことと紹介し、また困難と分かっていても一直線に邁進した幕末の会津の人々「白虎隊」にも通じる気質と、「会津」と「野口」を対比した見方から描かれて「遠き落日」での野口像を今一歩進めています。(3/18) | |||||
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先月読んだ「安積疎水と郡山の発展」に続き渡辺信任(のぶとう)氏についての書。冊子で10数ページです。渡辺信任氏は明治19年の生まれで福島県郡山市出身。若くして安積疎水の常設委員となり福島県会議員も務めた地方の名士。特に水利、水資源につては先見の明をもち安積疎水をはじめ、猪苗代湖磐梯山周辺の観光資源、国家的電源資源として只見川の開発などの重要性を早くからとなえた人でした。また本には書かれていませんが「英雄色好」を自でいった明治生まれの政治家、であったのです。私の叔母の義父であり、時としていろんな話を聞かされていましたが、昭和32年に没。郡山の家にあった熊の毛皮が子供心に強い印象をもったものでした。安積疎水の設計者オランダの技師「ファンドールン」の銅像を戦時の金属供出令から身を挺して守ったなどのエピソードも詳しく書かれています。(3/15) | |||||
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平成15年日本アカデミー賞を総なめの感がある山田洋二監督の初の時代劇「たそがれ清兵衛」の原作。江戸時代の山形地方の藩をモデルにして、藩内の抗争に巻き込まれる下級武士の様子が短編に著されています。表題のたそがれ清兵衛は病身の妻の世話をするために、勤務の時間が終わると誰よりも早く,何物もさておいて、家に戻りその間づーと寝たきりの妻の「しし」(小水)の始末をしておもむろに夕食の支度にかかります。そんなある日清兵衛に藩命により家老を暗殺することが命じらる。映画は原作の数編を土台に作られていることが分かります。収録最後の「祝い人(ほいと)助八」と巻頭の「たそがれ」がとても印象的であり、どの編も読後の余韻がすばらしい作品でいた。ちなみに宮沢りえが演じた「しず」は「祝い人(ほいと)助八」にでてきます。(3/11) | |||||
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「南の島の大王は その名も名前はカメハメハ」と歌ったのは水森亜土でしたよね。カメハメハ王朝は当時ハワイに住んでいたアメリカ人によって共和政をしかれその後アメリカ合衆国に合併されます。最後の女王「リリウオカアラーニ」はハワイの合併を身を挺して防ごうとするが、最終的にアメリカに強奪される。誇り高きハワイ人の涙をアメリカのマイノリティーの立場から著しています。ハワイアンソング「アロハオエ」の作詞作曲もこのリリウオカアラーニのものだそうです。(3/5) | |||||
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「守りもいやがる盆からさきにゃ 雪もちらつくし 子も泣くし」フォークグループ「赤い鳥」が歌った「竹田の子守歌」をCDで探したけれど発売されていませんでした。不思議だと思っていたのですが「竹田」は京都の同和部落のことであり、3番の「はよも行きたやこの在所こえて」とうたう在所とは部落をさす言葉だったのです。部落に住む女の子たちは「子守」として生活をささえ、学校に子供を背負って通える子はましなほうで、文盲で学校に通えないこたちの方が多かったそうです。竹田に伝わる子守歌(元歌)を赤い鳥のボーカル後藤悦次郎がフォークソングとして大ヒットさせましたがいつの間にか聞かれなくなったのは、差別問題を意識したマスコミが問題のある歌として、避けて放送しなかったと言うことが分かりました。差別について、同和問題についても「子守歌」を通じて詳しく書かれています。(3/1) | |||||
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